2013年11月号 あるがままの自分を愛する

 今朝、甲山森林公園でありがとうウォーキング中、保育園の子供たちの一群と出会いました。先生は必死で子供たちを並ばせようと、声高に「はい、並べえ―!!」とまるで動物を調教するかのような調子で叫んでおられました。すると、笑みを浮かべ生き生きと思い思いに自由闊達に行動していた子供たちが、シュンとし真顔になり並び始めました。

その公園は車も通らず安全な所、子供たちが自由に遊んでも列を乱して自由に歩いても大丈夫なのになぜ、自由を縛って完全に先生の支配下に置かなければならないのか…?

 その風景を見て「ああ、こうやってみんな自分の個性や自立性を無くし、ついには自分の中の神なる存在を見失い、大人の思惑の型にはめ込まれ、社会性を身につけることを第一義として、人と比較されながら生きていくのだなあ」と感じ、なんだか悲しくなりました。

 お友達と仲良くできることや、人に迷惑をかけず、規律を守り団体生活ができることは、もちろんとても大切です。でも団体生活からはみ出る子やお友達とうまく遊べない子が、劣った子でしょうか?お勉強が出来る子が良い子なのでしょうか?

それらは単に一つの個性にすぎません。本当の愛に生きれば、自然に社会性は身に付きます。現に、人類の進歩に偉大な貢献をしたり、人類愛に生きられた方々の中には、幼児期には友達がなく孤立していたり、わんぱくで先生を困らせていたりする人が、結構多いのです。

 

 8月のありがとう通信でお伝えしましたが、イギリス中の問題児が集まっているサマーヒルという学校の校長二イル氏は、生徒の事を「まるで小悪魔、世の中を呪い、破壊的でマナーも悪く嘘はつく、盗みも働く、また癇癪持ちですぐキレる」と言います。ところが入学して半年もたつと、子供たちは幸福で健康になり悪いことは何もしなくなる。その間、先生達は一切の注意や叱責をせず、全面的にありのままの姿で受容し、自由を与えます彼らを矯正しようとはせず、時にはニイル氏が破壊壁のある子と一緒に窓ガラスを割ったり、盗癖のある子の盗みに付き合うこともあるというから驚きます。

 

 ニイル先生と甲山で出会った先生との違いは何でしょう?

子供達の心を見通す力があり「子供たちの心の奥深くは神性であり愛である」と知っていて、本当に大きな深い愛と信頼をもって接し、子供達の愛を呼び起こしたか、それとも彼らの表面の個性を、社会性という一面だけで見て判断評価し指導方針としているかです。

さらに、その根源は、先生自身が自分を深く信頼できているかどうかなのです。

 子供たちの素直な命、愛、そして個性を健やかに伸ばしてゆける社会を築く時期です。そのためには、まず自分自身の全てをあるがままに受け入れ抱きしめ愛する、周りの全ての命の存在をあるがままに見つめ、全てがすでに完璧完全なる神としての存在であることに目覚め、感謝することから始まります。

 「ありがとうございます」という真言は、自分の本心は愛であり神そのもの、全ての命はひとつながりで神であり愛なのだと解る、そんな信頼だけの世界をつくる言霊なのです。

のさかれいこ